あの頃の自分h2-icon-diary

先日臨床研修プログラム責任者の講習会に行ってきた。丸々二日間の濃密な研修だったが、実に有意義であった。新しいことを学ぶのは、いつも楽しいものである。

参加者は全国さまざまな施設のプログラム責任者なのだが、肩書きや診療科はいろいろで、施設の規模も多様であり、背景は人それぞれである。研究畑を歩いてきた人はリサーチに重きを置き、診療一本でやってきた人は現場が大切だという。皆自分の経験をスタンダードとして考えており、そのため目指す臨床研修の姿も微妙に違いがある。自分の通ってきた道、特に初期研修の頃に刷り込まれた価値観は、何年経っても変わらないのである。

そう気がついたら、小生も自分のキャリア、特に初期研修時代を白状しないわけにはいかないと思った。だから今回はその頃の自分について書こうと思う。読者諸氏には、こんな経歴のプロ責だから、こんなことを考えるだろう、こんな研修を目指すだろう、と想像しながら読んでいただければよい。

さて、小生が卒業した1985年当時、当然今の臨床研修制度はなく、卒後は母校の医局に入局するのが普通であった。ただ、小生の母校は新設で、関連病院が少ないこともあり、卒業生の半分は大学を離れて全国に散らばった。大学側から、「自分の受けた教育に自信を持って、大いに他流試合をしなさい。」と景気のいいことを言われて送りだされたのである。

卒業を迎えたとき、小生は今日言うところの総合診療(当時は「ジェネラル」といった)に興味があり、スーパーローテート(同様に「全科ローテート」といった)ができる研修を受けたかった。六年間医学部の授業を受けたが、特にこれをやりたいというものも見つからなかったし、医者ならば幅広くいろんなことが出来た方がいいと単純に信じていた。また、教授回診に象徴される大学の医療の雰囲気は、いわゆる「お医者さん」のイメージと違っていて、違和感を感じていた。

決定的だったのは臨床実習中の出来事である。某診療科で入院患者が出血性ショックになった。だが、居合わせた教官は血圧一つ測定できず、右往左往するだけだった。こんな医者にはなるまいと強く思ったのである。

母校は六年間のレジデント制など、当時としては新しい卒後研修システムを採用していたが、さすがに全科ローテートのカリキュラムはなかった。そこで国内を探したところ、片手で足りるほどの数ではあったが、全科ローテートが可能な市中病院があることがわかった。その中から、自分の出身地に近いA病院を研修先に選んだのである。

余談だが、その頃から臨床研修病院という制度はあって、大学以外でもやる気のある病院は自前で研修医を採用していたのである。これらの病院の長い間の努力が、今日の新臨床研修制度を推進する大きな力になっているように思う。実際今日もこれらの施設には多くの研修医が集まっているのである。

A病院には試験があり、定員の倍ほどの学生が集まって集団面接を受けた。カリスマ病院長の独演会で、我々は自分の名前と出身大学を言ったくらいである。何を試されたのかさっぱりわからなかったが(笑)、幸運にも採用され、A病院での研修が始まった。

今は臨床研修の分野では名だたるA病院であるが、当時は内科の専門分化がようやく始まったころで、ICUも黎明期であった。ただ、心臓外科以外の診療科はすべて揃っていた。 

一年目は全科ローテーションをした。小生の最初のローテート先は外科で、三か月で全身麻酔を30件ほどかけて、挿管を覚えることができた。手術は当然鈎引きで、午後になっても前夜の酒が抜けず、居眠りをして怒られた。イソジンで肌が真赤にかぶれて、一人だけヒビスクラブで手洗いをした。

思い出話は筆が進みますね(笑)。次回に続きます。

 
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