2017年05月31日
第50回 指導医の本音(その4)
風薫る五月。青空、新緑、水を湛える田んぼの輝き。本当に気持ちのいい毎日です。みなさん、お元気ですか。
さて、私ごとですが、この春から肩書きが変わり、仕事の内容も大きく様変わりしまして、勝手の違う毎日を過ごしております。出張に出かけることも多くなり、大幅に更新が遅れたことを、まずはお詫びいたします。
さて、今日は指導医の戸惑いについて書こうと思います。どの施設にも、研修医の指導に一所懸命な先生が必ずいます。もともと教育マインドが豊かで、みなさんのことをいつも気にして、その力になりたいと思ってくれる人たちです。
一方どの施設にも、研修医の指導に後ろ向きの先生もいるようです。教育に懐疑的で、みなさんとの関わりを時間の無駄だと考える人たちです。自分が育ってくる過程で、そんな考え方をする先輩が周囲にいたのでしょう。その意味では、不幸な人たちだともいえます。
ただ、これらのポジティブ指導医やネガティブ指導医は正規分布の両端にいる人たちで、数としては少数です。大部分の指導医は、みなさんにどう接したらいいか、戸惑っています。ちなみに、この大部分の指導医がポジティブ、ネガティブ、いずれの指導医に親和性を持っているかによって、研修病院の雰囲気が決まってくると思っています。
海外では、医師の仕事は診療や研究だけでなく、教育も当然含まれると考えられています。残念ながら日本では、大学病院に「医育期間」という言葉が使われるように、教育は大学が行うことだという捉え方が主流です。一方アメリカでは、市中病院の指導医たちも、clinical educatorと呼ばれて尊敬されます。
この差は思いのほか大きくて、指導医講習会などの場面で、指導医からはこんな意見が聞かれます。
「こんなことを勉強しても役に立たない」
「(講習会の)必要性が理解できない」
「勉強は自分でするべきものだ」
「教育にもインセンティブをつけてほしい」
「何をどうやったらいいのか全然わからない」
彼らは研修プログラムもなく、どのような医師を目指すべきかという目標も示されず、先輩を見て盗めと言われ、評価を受けず、代わりに叱られてきた人たちです。Teacherとしてのお手本となる先輩もいない中でわが身を立ててきたわけで、教育の大切さを理解できないのも無理はありません。彼らもまた貧困な教育の被害者なのです。
新しい世代には、そんな思いをさせたくありません。だからこそ、彼らに教えることに目覚めてもらわなければなりません。そのためみなさんにも考えてほしいことがあります。 まず、指導医とたくさん話をすることです。教育について知らなくても、自分の経験を語ることなら誰にでもできます。指導医が語る一つ一つの物語が、みなさんにとって参考になるはずです。もちろん、ふだんの診療で疑問に思ったことはどんどん質問しましょう。
それから、自分の目標を明らかにすることです。将来○○科をやりたい、とかいうことではなくて、「自分はこんな医者になりたい」という目指すべき姿について、指導医と一緒に考えましょう。ここでは知識や技術よりも、医師としての姿勢に重点を置くとよいでしょう。この話題なら、どんな指導医も自分の経験に基づく意見を持っているはずです。同じテーマについて語るうちに、彼らはみなさんに興味を持ち、味方になってくれるでしょうし、みなさんも新しい自分を発見できるにちがいありません。
大切なことは、みなさんと指導医が一緒に進んでゆくことです。教育の本質は「共育」(ともにはぐくむ)だと思います。知識や技術を指導医教わるのが研修ではありません。研修とは、自分で考え、自分で行動してゆける医師になることです。それには指導医も研修医もないのです。同じ学びの道に立つ者同士、悩みながら一緒に成長ゆけばよいのです。
ほとんどの指導医はそれをわかっています。でも、先輩のプライドがじゃまをして、それを認めたくないのです。そこのところは、みなさんから水を向けてやってくださいな。
では、また次回。次からは筆者以外の指導医たちもご意見つかまつるかもしれません。お楽しみに。