新潟県厚生農業協同組合連合会 上越総合病院

初期臨床研修

2012年07月25日

カルテを書こう:その2

さて、可愛い研修医たちのカルテを開いてみる。総じて頑張って書いている、と思う。病歴や検査所見がこと細かに書いてある。日々の progress note もきちんと綴られている。きっと時間をかけて、唸りながら書いたにちがいない。ジーンとくる。

何よりすばらしいのは、日本語で記載されていることである。カルテはそれを利用するすべての人にわかるように書かれていなければならない。ロンドンやニューヨークではないのだから、日本語で書くのが当たり前である。しかし、小生たち古い世代は英語で書く。もっと世代をさかのぼれば、ドイツ語で書く先輩方もいるかもしれない。そのように教育を受けたからである。

当時は、カルテは医者のものであるという考え方が支配的で、ほかの職種や患者さんにそれを見せるなんて考えもしない時代だったのだ。物事の価値観は刻々と変わる。しかし染みついた習慣は抜けず、人は変化に適応してゆけない。そんなわけで、小生のカルテは落第である(ちなみに、英語のカルテで唯一良い点は、記載するのに時間が節約されることである。日本語で同じスピードで書こうとすると、自分でもてんで読めない字になってしまう(笑))。

話をカルテの内容に戻そう。当然のことながら、改善してほしいこともある。

まず、身体所見をもっと詳細に書いてほしい。病歴や検査所見と同じように、あるいはそれ以上に、患者さんを診察した所見は重要なデータベースである。バイタルサインに始まり(呼吸数の確認を忘れないこと!)、頭の先から足の先まで系統的に、いわゆる review of system という視点にたって診察をしてほしい。どの病院のカルテにもそのような身体所見のフォーマットが用意されていると思うので、それを全部埋めるつもりで診察し、その結果を記載する。最後に重要な所見を整理してリストアップする。研修医のうちに、その習慣を身に着けてほしいのである。

以前勤めていた病院で、こんなことがあった。カルテの様式を全診療科で統一させるプロジェクトを進めているときのことである。当然のことながら、これまで述べたような理由で身体所見の用紙を入れる提案をした。しかし、某診療科の指導医から、「こんなものはいらない。○○科ではどうせ××しか診ないのだから、こんな紙を入れるだけ無駄だ。こんな紙が入っていると、書かないといけないことになってしまう。空欄になってしまうのもみっともない。迷惑だ。」 何をか言わんや、である。余談ながら、あまりにも専門分化が進みすぎると、こういう主張が正当化されてしまう。臨床医の目的は患者さんの多様な問題点を解決することにあり、問題点を抽出する刀が錆びついてはならない。総合診療が最近の学生や研修医のトレンドであるが、だとすれば、なおさらこの点が重要である。

さて、身体所見の用紙が埋まらないのはなぜでしょう。それは診察の仕方が未熟だからである。未熟、というには具体的に二つの要素がある。一つは診察の技術、アートの部分が不足しているために、所見を導き出せないという点である。もう一つは、系統的な診察の手順が身についていない、ということである。このことを書きだすと長くなるので別の機会に譲るが、自分なりの、落ちのない診察手順を習慣として(勝手に体が動くように)体に覚えこませることが大切である。根気よく繰り返す以外にこれを習得する方法はないが、根気よく続ければ必ず身につくものである。そんなわけで、system review の所見がきちんと書かれているかどうかを見れば、その研修医の診療に対する姿勢が一目でわかるのである(!)。

さて、病歴、身体所見、検査所見などのデータベースを集めたら、それらを整理して、診療の方針を立てなければならない。ここがカルテのキモであり、君たちの実力を発揮する場所である。と同時に、君たちの弱点でもある。この続きはまた次回、ということで。

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