新潟県厚生農業協同組合連合会 上越総合病院

初期臨床研修

2013年12月02日

ご無沙汰しました

このコラムを書くのは、随分久しぶりである。忘れていたわけではもちろんないが、以下に述べるようなもろもろで、時間を見つけるのが難しかったのだ。まずはおわびを申し上げたい。

さて、休載の間小生が何をしていたかを、順にお話ししたいと思う。

十月。全国から集まったプログラム責任者の先生方と、臨床研修のあり方について考える機会があった。今回はこの催しを仕掛ける側の参加であり、受講者として参加したときと比べて、多様な視点から臨床研修の問題を掘り下げ、かつ俯瞰的に思案することができたように思う。

そこで得たものはあまりに多いが、このコラムにふさわしいことを一つだけ述べておく。それは、どの研修病院も、よい研修を実現しようとして一所懸命であるということである。そこのところは、君たち研修医にぜひとも理解してほしい。

しかしながら、理念や目標の美しさの一方で、現実世界には種々の制約がある。指導医の熱意が足りない、時間がない、お金がない、そもそも研修医が集まらない、などである。とりわけ世間(患者さん、または国民と言い換えてもよい)や研修病院の研修医に求めるニーズ(こんな医者に育ってほしい)と、君たちがやりたいこと(研修医の側の興味やニーズ)にギャップがあることが、研修の成果が挙がらない大きな要因になっている。ややもすれば哲学的なこんなテーマを考え続けた一週間であった。

それが終わって、先日ある学会認定医資格の試験を受けた。当日までの約一か月間、久しぶりに受験勉強をした。経験だけは増えたので、概念の理解はできる。だが、悲しいかな、固有名詞が頭に残らない。老いを感じて焦ってしまう。

だが、学ぶことは楽しい。年をとっても、新しい発見をしたり、知識が増えたりしてゆくことの喜びは変わらない。それにしても、医者になって三十年弱、いかに勉強することを疎かにしてきたことか! 先生様と祭り上げられることに甘え、専門医の名に都合よくすがって、畑違いのことは意図的に避けてきた自分がいる。専門分野についてさえ、知らなかったことの多さに愕然とする。それに気付かず、勘違いしで偉そうにしてきた自分がいる。試験の結果がどうであれ、それに気が付いただけでも、今回の受験の価値はあったというものである。

さて、一息ついてわが研修医たちの姿を見つめる。一年生も研修開始後半年が経った。先日食事をしながら来し方の振り返りをしたよね。君たちなりに一所懸命に考えていること、進歩しようとしていることを感じて頼もしく思ったものだ。

だが、彼らの言葉とは裏腹に、指導医やコメディカルからは、君たちの研修の様子について、疑問の声や厳しい指摘も耳に入ってくる。これもまた事実であることを知ってほしい。

君たちのニーズと患者さんの側(君たちを世のため人のために役立つ医師にする責任を負っているという意味で、指導医や研修病院も患者さんの側にいると言ってもよいだろう)のニーズの隔たりがその原因であるならば、君たちは患者さん側のニーズを優先させなければならない。臨床研修は国民の期待に応える医師を要請するためのものだからである。

君たちはその期待に応えるだけの成果があがるように努めなければならない。自分の興味も大切だが、それだけでは足りないのである。今ひとつ関心の持てない分野でも興味をもって研修ができるように、指導医も努力をする。だから、君たちにも一緒に頑張ってもらいたい。

初期研修の到達目標には、経験目標(二年間の間に経験しないといけない疾患、病態、手技など)ばかりではなく、行動目標というものがあるのを知っているだろうか。患者―医師関係の構築、チーム医療、安全管理、医療の社会性などのテーマが並ぶ。君たちにとってはどうでもよいテーマかもしれない。だが、きわめて大切な課題である。

これから君たちにはこれらについても考えてほしい。その基本となるのは、医療者としてのプロフェッショナリズムであろう。そのことについて深く考察したとき、わが身を振り返り、行動が変わるに違いない。君たちとディスカッションするのを楽しみにしているから、早く勉強会の日程を決めてよね。

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